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興文連合自治会

 

興文学区の町名

もと大垣城本丸、二の丸、三の丸等が在って御郭内と云われた処は、やがて明治になって元郭内と呼ばれ、商業を営む人々が集まり始めて郭町となり、町並みが発展するにつれ町名改定の際、郭町御殿町丸の内高砂町と名称がさだめられた。

大垣藩校敬教堂の前身は天保時代藩士岡田主鈴が開いた私塾。のち大垣蘭学問所となり、英語・西洋医学・武学・国語・蘭学等を教え、幾多の英才を輩出した。10代藩主氏彬の時、敬教堂の精神的なよりどころとして聖廟が建てられ、そこにモクセイ科のトリネコが植えられ、剣の木と呼ばれていた。大垣大空襲にも傷つきながらも生き続け、現在地東外側町保健センターに植え替えられ、保護されている。

明治時代になって、大垣藩校・敬教堂は武学校と文学校に分けられ、武学校は南校、文学校は北校と呼ばれた。その後、南校は高等小学校になり、今の興文小学校に北校は実科女学校となり、大垣城北にあった高等女学校と共に大垣高等女学校になって、今の大垣北高等学校になった。

郭町 城のかこいを郭といい、大垣城ゆかりの地であることを町名が物語っている。市内の代表敵な商店街。常葉神社大垣城大垣公園大垣城ホールなどあり、市民の憩いの場となっている。

10月の十万石祭りは、常葉神社の例祭で、常葉神社は大垣城旧竹の丸跡の現在地に再建されたもの。

 ▲大垣城
 大垣城築城は、天文4年(一五三五)、宮川安定という。しかし、この城が歴史の舞台に登場したのは関ケ原合戦で、西軍の本拠となってからである。 また、江戸時代から、中山道と東海道を結ぶ重要な美濃路沿いに発展した城下町として注目される。 大垣械は戦国時代の風雲の中で多くの武士の血を浴び、動乱を息づいてきたが、第二次大戦で焼滅し、新たに再現されたもの。

郭町東 郭町の東側にある商店街。大手門跡がある。

東外側町 郭内の外にあるので外側町と名付けられた。西流する水門川北岸に沿う地域で、大垣停車場線が南北に走り、水門川と交差するところに水門橋がある。主要地方道の西2丁目が興文校下。保健センター、急患医療センターなどあり、大垣藩校敬教堂跡、トリネコがある。

桐ケ崎町 城下町時代には侍町であったといわれている。商店街。

西外側町 東から西へ曲流する水門川西岸の住宅街。両外側町とも、御郭内の外にあるので外側町と名付けられた。興文小学校、円通寺、八幡神社などがある。なお、興文小学校校庭には、小原鉄心の胸像あり。

番組町 寛永元禄年間に侍町となり、藩御用の番匠に属する者の屋敷があったので、この名がある。

鷹匠町 番組町同様寛永元禄年間に侍町となり、此処に住む藩士は城主の鷹狩に随従する鷹匠であったので、この名がある。

西長町 寛永元禄の頃、侍町となり東長町に対し、町並が長いので、この名ある。

馬場町 北境に大垣運河が東流する住宅地。大垣藩士の馬場があったので町名になった。寛永年間には馬場の両側の大部分に藩士の屋敷があったという。 

船町 中央を県道岐阜垂井線が東西に貫通し、東部を南流する水門川との交点に高橋がある。県道の北側、水門川西岸沿いに2丁目、その南、県道に沿って4丁目があり、2丁目と4丁目の一部が輿文校下。商店・住宅街であるが、この地は史跡・文化財が豊富で、水門川の船町港跡には住吉灯台がある。松尾芭蕉の奥の細道むすびの地として市史跡にも指定され、谷木因俳句道標が連てられている。曹洞宗全昌寺(2丁目)境内には幕末維新の勤皇家・小原鉄心の別荘無何有荘(市文化財)がある。
 この地域は船の便がよかったので輸送されて釆た陶器を売る店があり、俗に瓶屋町と呼ばれたという。高橋から西への美濃路には両側に松並木があって、家並の前に川があって船が通ったので、船町と名付けたという。慶長の頃のことである。この町からは船で桑名を経て伊勢へ行く便があって、大垣港が発展した。いま史跡・船町港跡、住吉灯台が、その昔の面影を伝える。

 ▲奥の細道むすびの地
 元禄2年3月、松尾芭蕉は江戸深川を出発し、門人・曹良を供に奥州各地を行脚し、北陸から美濃に入り、8月、大垣に来遊して「奥の細道」の旅を結び、9月6日、谷木因らに送られて船町港から水門川を伊勢へ下った。

 ▲谷本困俳句道標
 芭蕉と親しかった谷本因が貞享年間に建てたものと伝えられもとは美濃路の水門川にかかる高橋南側畔にあった。この道標の句は「南いせ(くわなへ十りざいがうみち)」と刻まれ「くわなへ」は地名の桑名に、季語の桑苗を掛言葉にしたもの。

 ▲ 全昌寺 
 大垣藩初代藩主・戸田氏鉄公の奥方大誓院がその叔父・全昌居士のために慶長年間に尼ヶ崎に建立、寛永12年氏鉄公の大垣十万石国替に際し当地に移建された。弘化3年、藩主の招きに応じた当寺25世住職・鴻雪爪、大垣藩重臣・小原鉄心の墓と鉄心の別荘・無何有荘の一亭が境内にある。
鉄心は鳥羽伏見の戦いで幕軍に投じた大垣藩の藩論を動皇に統一、東山道軍の先鋒として功を立て、大垣藩を安堵した人物。その鉄心が、佐久間象山、木戸孝允等と、国事を論したという歴史的な建物であるばかりでなく、和風に唐様式をとり入れ、天井は葦の編物、ギヤマン障子のわくは桐、屋根は主屋がかやぶき、便所と風呂場が桧皮葺き、紅がら塗装というモダンな建造物で一見の価値がある。

神田町  西大垣停車場線が中央を東西に貫通し、西端の近鉄西大垣駅に通じている。商店・住宅地。
 大井荘に属した切石村は広い地域の村で、北は現在の神田町から南は本今町辺りに至り、東は水門川より西は久瀬川町に至ったという。このうちの井之町が神田町の前身のようである。

室村町 室村の一部が木戸町2丁目、鳩部屋町、西崎町、室本町、室町、宮町 見取町になつた。室村町はもと室宇といい大井荘内、元徳2年(一三三〇)の東大寺名寄帳に見える。当村に往古より室清水があったという。

見取町 東西に走るJR東海道本線をはさんでいて、興文校下は3ー4丁目。東大寺文書に見取と見える地名あり。

宮町 文明年間に既に存在していた町名のようである。

室町 正徳時代の明細帳によれば、室村に室町があり八幡神社北と西の地域で、江戸初期より侍屋敷となった。

西崎町 興文中学校西崎水源池などある。承応年間牛屋村を西崎村と改称している。西崎村は明治初め、切石村に編入、まもなく分村独立し、昭和16年から西崎町と呼ぶようになったという。

鳩部屋町 番組町と同様、寛永元禄年間に侍町

室本町 旧商業高校跡地にスイトピアセンター、図書館、文化会館などがある。室村の地域は、北は今の宿地町に当り、南は牛屋村(西崎村)の北端辺であったといわれている。室村5丁目から11丁目が名称変更されて室本町ができた。住宅地。

木戸町2丁目 都市計画復興土地区画整理事業によりできた住宅地。

参考文献

  昭和35年発行大垣市立興文小学校120年史編集 興文120年史、地域文化研究会の著書等参考にて記述



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